何日かあとの夜、壹岐はアパートに戻ってこなかった。明け方近くなってから桂は捜しに出かけた。

「サニーを売り歩くいまは一介のセールスマンだが、屋代島の実家は大きなミカン山を持っているんだ、と自慢たらたらに話していたわ。そこの次男坊らしいよ。」

まだ身近な他人のうわさ話のような口調で壹岐は桂に話したことがあった。

「付き合っている女の子とのことで悩みを聞いて欲しい、と頼まれているの。どうすればいい?」

人の心を覗き込むと一散となる壹岐の悪いクセが出てきたなと桂は思った。ほっとけほっとけ、わざと冷酷に言ってとり合わなかった。

「店の大切なお客さんよ、そんなことできるわけないじゃない」

あのときも壹岐はかつてないほど赤みを帯びた顔をひきつらせていたのだった。路傍でばったり遭遇した(ふたりの目の前にわざと現れたのかも知れない)ことがあるその男に壹岐はいつかほだされ、なびいていくかも知れないと危ぶみながらそれも詮ないことだと思った。日一日と荒みゆく虚脱はぶかぶかの靴のように持て余し物だった。

伏見稲荷の千本鳥居を実際にくぐるのは二十年後の一九九〇年だった。晩秋を迎える頃、鳥居の下を恋々と歩いたあとそのままの勢いで山ふところに入りこんだ。きつい勾配を這いつくばるように登り、熊笹の茂みをかき分けてもう光の届かなくなったくぬぎ林の中にいたった。そこに寝転がると濡れた枯れ葉が背中に当たった。途中立ち寄った見晴らし台の茶店で飲んだ甘酒が逆流してくる。この酸っぱさはなんだろう。カラスがあちこちで鳴いていた。その声すら夕闇を縫う幽玄な音に聞こえる。神殿からはるかに遠く離れたここまで神意が届いたのかどうか、あのときの壹岐の姿が思い出された。ここを先途にもう二度と思い出したり涙の意味を考えたりすることはないだろうと思った。

路面電車の停留場のそばにサニーは停まっていた。ガラス越しに見つめ合った途端、壹岐の顔がぐしゃっと潰れた。怒りや心配や不安など一切の感情が急速に萎え、帰ろうよ、とだけ桂は言った。

「いい、もう私は誰とも一緒にいられない。ひとりで生きていく」

鴨川のほとりにある病院に壹岐を見舞ったのはそのときから一年も経っていなかった。和風旅館と見紛う玄関の向こうに黒光りする廊下が遠く伸びていた。踏み込むごとにこだまのように軋む渡り廊下を過ぎ、片側にいくつか並んだ部屋のひとつに名札がかかっていた。ふすまを開けると、壹岐が畳の上に直に敷いた布団の上に正座していた。