詩情と構造現代において詩を書くということ 

          井上輝夫詩論集『詩心をつなぐ』を読む

                                                 國枝孝弘

 

 

 

 

 

『詩心をつなぐ』は、詩人であり、主に十九世紀を専門とするフランス文学者であった井上輝夫の詩論集である(以下、大学の同僚として、かつて「井上さん」、「國枝さん」と呼び合った仲として、「さん」づけで書くことをお許しいただきたい)。本書には北村透谷、蒲原有明、西脇順三郎、入沢康夫、飯島耕一といった、日本の近・現代の詩人たち、そしてフランスのボードレール、ポール・ヴァレリーと、多岐にわたる十四の論考が収められている。

このように幅広く、さまざまな詩人を扱いながら、どの論考にも共通する主題がある。それは「現代において詩とは何か」という正面切った問いである。他の文学様式と比較したとき、井上さんにとって詩とは、何よりも「私性」を切り離すことができないジャンルであった。しかし「私」を素朴に表出しただけでは優れた詩は生まれない。それでは「生活感情の安易なたれながしの表現」(70ページ)に過ぎなくなってしまう。

では詩人は何を考えるべきか。まずは「私」を構造化すること、そして言語を構造化することである。構造とは、平たく「仕掛け」(40ページ)と言ってもよいが、「私」と言語、それぞれの構造化がなければ、詩は作品とならない。

「私」の構造化とは、私を同時代との、あるいは歴史との関係において把握を試みることである。同時代については、詩人は「どこかで現実に足をつけていなければならない」(67ページ)し、「同時代の現実に敏感な関心を保ち続けなくてはならない」(119ページ)と、井上さんは言う。内面だけで自足する自己は詩の主体たりえない。そうではなく時代と切り結んだときに、初めて「私」は現れる。だからこそ「文明開化へ邁進する近代日本への根深い懐疑」(27ページ)とともに個人主義を論じた漱石の姿に、井上さんは共感を抱くのであろう。

歴史との関係とは、伝統に対して、現代に生きる私はどういう態度をとるべきかという問題である。詩の伝統は、長らくその形式性によって保たれてきた。詩を書くと言ったとき、その伝統を継承するにせよ、断絶を決意するにせよ、私はどう臨むのか、それを根底から考えることなしに詩を作ることはできない。

私という存在を、同時代と歴史という共時性と通時性の関係のなかにおくことで、私は構造的な現象として現れてくる。この私を冷静に他者のようにして眺める視線によって、ようやく詩作への準備が整い始めるのだ。

言語の構造化は、上述の私と歴史との関係に深く関わるが、言葉のもつ二重の性質を考えることから始まる。言葉は「貨幣のように手垢のついた意味伝達としての記号」(306ページ)であると同時に、「特有の美的機能」をも備える。美的機能とは、創作によって新たに生み出される意味や解釈と言ってよいが、詩作においては、何らかの形式が必要とされる。詩から形式を取り去っていけば、言葉は散文となっていく。確かに詩人は、現代において形式の束縛から解放され、自由を獲得したが、では完全に形式が消失してしまえば、言葉は果して詩でいられるだろうか。形式という伝統からの自由と、詩が詩であるための根拠との関係性を問うことこそ、井上さんが敬愛した西脇順三郎が詩作の実践を通して考えつづけたことであり、そしてそれは井上さん自身の問いでもあった。

西脇論で、井上さんは、形式は「個人をこえたもの」であるが、「自由詩にあってもおのずとある文体(スタイル)や形態(フォルム)がある」(154ページ)と述べている。現代においてこそ、自分固有の文体や形態を生んでゆくこと、そこに詩の生き延びる可能性がある。だからこそ、井上さんは、詩を丁寧に読み込み、その文体や形態の創造=言語の構造化の営みを明るみにだそうとしたのではなかったか。

実際、西脇順三郎の詩に対して、井上さんは、きわめて精緻な分析を行なっているが、その分析の主眼は、西脇詩独特のレトリックの解明であった。詩が描く場面転換において、遠い関係のものがぶつけられたり(「アーサー王物語」の宮廷と八瀬大原)、芭蕉の詩をパロディにするデフォルマシオンの手法などである。

文学作品は荒っぽく言ってしまえば、内容と形式によって作られるのだが、井上さんの詩論は、基本的には、言語形式、ここで述べてきた言語の構造化が中心であった。ボードレールや西脇の詩作品について、「言葉というメディアが芸術的効果という目的のために通常とは異なる使われ方をした結果」であって、「歌われている主題が、悲恋だとか孤独の嘆きであるからではない」(191ページ)と述べているが、これは井上さん自身の詩作にも重なるだろう。

しかしだからといって、井上さんが主題を看過していたわけでは決してない。ここでかつて井上さんが私に言った言葉が思い出される。「文学は結局、愛・性・酒・死ですべて語り尽くせるんじゃないだろうか」。この詩論全体を通して読めば、そこには官能やエロス、酩酊や陶酔、淋しさと流離という言葉が実に多く使われていることに気づく。

現代において詩を考えるときには、言語の構造化に重きを置かざるをえなかった。だが詩から人間にとっての普遍的な主題が消えることはもちろんない。

おそらく井上さんは次のように考えていたのではなかったか。

わたしたちはかけがえがない存在ではあるが、生きとし生けるものは必ず死ぬ。それでも生きた痕跡は消滅することはない。なぜなら、人間とは過去の継承者であり、その過去との不断の対話の中で、新たな創造を生んでいくからだ。そのとき、連綿と続く人類の文化のなかに存在は刻まれる。こうして人間存在全体の詩とも言えるべきものが生まれる。この創造的行為こそが人間を存在させる力動の根源である。世界へ、宇宙へと響く人間の力動への確信が井上さんの詩作の中心にあったのではないだろうか。

 

 

 

國枝孝弘(くにえだたかひろ)。一九六五年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部教授兼政策メディア研究科委員。文学博士(Université Toulouse II-Le Mirail 1999)。フランス文学・フランス語教育。

ツイッターアカウント:https://twitter.com/takakunieda

 

『詩心をつなぐ』井上輝夫(慶應義塾大学出版会、2016年2月、3600円)

慶應義塾大学出版会ホームページ

 → http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766423020/