「中心點」との一体化 次は、目に見える形になった「無言」である。世評に起筆した一文中に見出せるものであるが、まずはその応じ方。世間から自然主義作家と呼ばれることに違和感を抱きながらも、独歩は、面と向かって反論することはなかった。思わせるようにしていた。次のとおりである。

 

それでも君は自然派であると評する人があるならば、左様ですか一向存じませんでしたと答ふる外はない。僕は自然主義なる者を知らずして今日まで製作したと言ふ、決して自然主義は僕の主義であるとも無いとも言はない。獨歩は獨歩である。(「余と自然主義」明治四〇年一〇月))

 

ここに作品の裏付けがなければ、嫌味にも聞こえしまう言いぶりであるが、作品の前には説明は要らない。作品がすべてを語りつくすのを身を以て示す者の、その先に吐かれた言であるのを知るとき、次のくだりに聴く「中心點」のもつ重みに、詩と小説の問題を含めて、独歩にかかる文学のすべてが語り尽されているのを痛感することになる。核心部分である。

 

私の書いた『空知川のほとり』といふのでも、烏水君は大變褒めて呉れましたが、あれにしたところで、私は自然を精細に描写しては無い、たゞ自然の感じた、眞に心のそこへ自然が沁み渡つた中心點より外書いてない。(「自然を寫す文章」明治三九年一一月、傍線引用者)

 

まさにここである、「目に見える形になった」とは。すなわち「中心點より外書いてない」の言い切り部分である。とりわけ「中心點」なる一言の意味に深まる自己規制である。読み替えれば、「獨歩吟」への自己批判にもなってしまう。如何に規制外に発せられていたかが、小説作品が成った後では一目瞭然だからである。

次の詩篇は、「山林に自由存する」とともに、北海道への移住を目論んで、石狩川の一支流空知川岸辺に広がる、人跡未踏の原始の森に分け入った時の体験をもとにした一篇である。そのとき彼の想いの冒頭にあったのは、許婚(佐々城信子)と暮らす新天地への熱い思いであった。詩文へと駆り立てる最初の情熱だった(第一聯)。それが新妻の失踪という形で、半年間という短期間のうちに破局を迎えてしまう(第四聯)。すでにそれ以前に新天地の夢は、許婚の母親の反対で実現できないままに潰えている(第二聯)。余計な解説だったかもしれないが、二極化に晒された自己をどちらかと言えば「受身」に詠ったものである(中島一九八八)。「中心點」を感じとることは可能か。

 

 

  森に入る

 

遠山雪をわれのぞみ

  若き血しほぞわきにける

自由にこがれわれはしも

  深き森にぞ入りにける

 

あはれ乙女のこまねきて

  戀しき君よと呼びければ

わかき心のうきたちて

  何時しか森をわれ出でぬ

 

森をば慕ふわれなれば

  都のちまたに生ひたちし

乙女がこゝろあきたらで

  戀を黄金に見かへしぬ

 

あはれはかなきわが戀よ

  若きこゝろもくだかれて

わかき血しほも氷りはて

  をぐらき森にわけ入りぬ

 

「中心點」の思想がいつ生まれたかは知らない。引用した世評に対する一文は、没年前二年の明治三九年である。次の「体験記」(小説タッチにした体験記)は、褒められたという『空知川のほとり』(「空知川の岸辺」)の原始の森に分け入った際の一くだりである。書かれたのは、明治三五年である。詩作品とは五年の隔たりがある。ここには意識していようがいまいが、「中心點」を抱え込んだ魂がある。魂が書かせた一文である。詩篇と引き比べたいのもここである。ここからは真の詩魂ともいうべき、生命を宿した「魂」の音が聴こえてくるのである。

 

余は時雨の音の淋しさを知つて居る、然し未だ嘗て、原始の大森林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほど淋しさを感じたことはない。これは實に自然の幽寂なる私語である。森林の底に居て、此音を聞く者、何人か生物を冷笑する自然の無限の威力を感ぜざらん。怒濤、暴風、疾雷、閃雷は自然の虚喝である。彼の威力の最も人に迫るのは、彼の最も静かなる時である。(「空知川の岸辺」、傍線引用者)

 

彼が『抒情詩』(「獨歩吟」)以後も詩を書こうとしたなら、一つには傍線に示された部分の、予期しえなかった絶対性に晒された無力感を生に蘇らせる詩行化が課題となる。「石狩の野は雲低く迷ひて車窓より眺むれば野にも山にも恐ろしき自然の力あふれ、此處に愛なく情なく、見るとして荒涼、寂寞、冷嚴にして且つ壮大なる光景は恰も人間の無力と儚さとを冷笑ふが如くに見えた」と記す一文(同作品の冒頭部)の、「此處に愛なく情なく」という、殺気立った非情に対する身構え方も問われる。いずれも彼の馴染んでいた、生得的に解し得る自然は、ここになかった。「武蔵野」的な自然観も否応なく変更を余儀なくされる。

その上でかりに新たな詩作がなされたとしたなら、過去の作品に対する総括なされたかもしれない。松岡とは違った形で全否定的な自己批判に自分晒し見せたかもしれない。しかし詩は書かれなかった。かわりに生まれたのが小説である。「中心點」を実作化したものである。機会あるごとに「独歩の魅了」として語られる珠玉の作品群だった(一)。

この「中心點」からあらためて思うのは、詩と小説との非循環を自身の生によって生き直して見せた独歩の存在形態である。詩と小説の問題が、二者択一的な、どちらかを選べばよいような二者関係でも、両者の必然性から自由な他者関係でもないことを、生の詩化として明かして見せる。また見せることを生とする。肝心なことは、「生」を仲立ちにしていることである。自然主義の藤村・花袋が知らない「生」であり、詩化である。「中心點」を知る者か知らない者かの差であるが、決定的な差であることを知るのは独歩のみである。芥川龍之介が知っていたのは、当然と言えば当然だったかもしれない(二)。

(一) 藤満義/金美卿「この人に聞く 国木田独歩の魅力」(『国文学 解釈と鑑賞』第五六巻二号・特集国木田独歩の世界、至文堂、一九九一年)

(二) 前掲「河童」中に思いがけず独歩の名を聞くことになる。河童の国の大寺院を訪れた主人公は、長老の案内を受ける。龕に収められた聖人像が一体ずつ説明されていく。なんとそのなかの一人として独歩が祀られていたのである。ストリントベリイ、ニイチェ、トルストイの次の四番目である。長老の説明はこうである。「これは国木田独歩です。轢死する人足の心もちをはつきり知っていた詩人です。しかしこれ以上の説明はあなたには不必要に違ひありません。では五番目の龕のなかを見てください。――」。ちなみに「轢死する人足の心もち」とは、独歩晩年の短編「窮死」(明治四〇年)をおさえたもの。「詩人」でなければ思い遣ることのできない、名も無き者(人足)の死に手向けた掌編である。読んだ芥川龍之介も最後の一行には胸を衝かれる思いだったに違いない。

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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