花袋の詩観 花袋にとって詩とは何であったのか、ほぼ一〇年を数える作詩期間の丁度中間点の明治三五年と、詩筆を絶った後の明治四二年に詩への言及がある。『抒情詩』に寄せたそれ(「序」)からすれば、詩論というより詩観である。

前者は、「抒情詩と自然主義」(『美文作法』「付録」)、後者は「抒情と心理解剖」(『小説作法』第四編三)である。関係部分を拾えば、「十九世紀の思想に最も大なる影響を与えたるものは自然主義なり」として、その影響を詩に取って返しては、「比較的その感化を受くること少なしと称せらるる抒情詩と雖も、仏蘭西、伊太利あたりにては既に大いにその自然主義の為めに蚕食せられたるを見る」とする。そして、日本の詩と自然主義について次のように語ってみせる。

 

自然主義の抒情詩に入ることの可否はこれ極めて大問題にして、容易に一朝に断定し得べきものにあらず。寧ろ二十世紀を待つて始めて解釈せらるべきものなるべし。然どこの滔天の勢いを有せる自然主義の益々その領分に押寄せつゝあるは、明かなる事実にして、新世紀に旗幟を立てんとする詩人はこの自然主義と在来の抒情詩との関係を詳しく知らざるべからず。有明の詩、われ敢て自然主義に密接したりと断言するにあらずと雖、その傾向あり、その色彩あるは、実に従来の新体詩家に見ざる所。(「抒情詩と自然主義」(『美文作法』「付録」))

 

初出は明治三五年二月(「太平洋」三巻四号)、『美文作法』への再録は明治三九年一一月。藤村の『破壊』と並んで早い段階での日本自然主義文学の成功作とされる『蒲団』(明治四〇年九月)の五年前であるが、再録からは一〇か月前である。起筆の動機は、おそらく蒲原有明の第一詩集『草わかば』(明治三五年一月)からの刺激である。事実、上引部分は、世間で難解と言われる近年の新体詩に関するくだり――「われは寧ろこの難解の詩句の中に限りなきの希望を抱く者なり」「而して有明の詩尤も晦渋なりと称せらる」(花袋同評)――を承けたものである。そしてさらに言う。

 

且有明の詩の傾向を見るに、渠は藤村の平静を有せず、薄田泣菫の熱情を有せず、晩翠の理想を有せず。然れども渠は藤村、泣菫、晩翠の未だ歩を着けざりしところに向つて着々新天地を開拓しつゝあるを認む。かれの詩は抒情詩人の所謂抒情詩にとゞまらずして、在来の抒情詩の上に更に一種の力を加ふ。(同上)

 

 

以上は本文の付録中の言である。本文の『美文作法』(凡例年代は明治三九年一月)中ではさらに「体系化」が試みられる。新体詩を三期に分け、各期の展開を訳知り顔に説いてみせるのである。この間に四年が流れている。これを四年間の成果と見るべきか否か。答えとしては否である。四年前のように、まだ将来に疑問を投げかけたままの方が、一度は詩に手を染めた「詩人」としての誠実な態度であって、詩に対する謙虚さが窺える。それが「体系化」によって自身を批判的に振り返る視野を閉ざしてしまうどころか(締め出してしまうのが正解ながら)、かえって自己救済を演じる方向に偏向的に仕向けて行く。やや強引で偏った詩史となる大もともそこにある。

それでも第一期は、順当に『新体詩抄』にはじまるが、後半期には当然挙げなければならない北村透谷の名を漏らして、代わりに宮崎湖處子や山田美妙を措く詩史は、叙事詩に対する排斥的態度が明確である。抒情詩史と命名すべきである。したがって前後に分かれる第二期もそれに相応しく、雨江、桂月、太田玉茗などを配するところとなる。彼らを前期としてしかるべく後期は藤村、晩翠の名を掲げる。以下は核心に触れる部分なので、花袋の言に拠りながらその言わんとするところを繙いてみよう。

まずは掲出詩人たちの称揚から入る。「藤村晩翠の二大家が顕れた。藤村の若菜集が出て、天下が靡然としてこれに赴いたのは、実に目覚ましいことで、此処に至つて、わが文壇は、始めて、西洋の詩に拮抗して敢て恥しからざる国語の詩を味ふうことが出来た」と。言うまでもなく両者は、花袋自身の作詩活動と重なる同時代の人である。念頭に自分のことがなかったかと言えば当然あったことになるが、同時代人への評価(賛辞)が、自分に跳ね返ってくることを当てにしていたものではない。それでは後で自分も批判に晒されなければならなくなってしまう。

別の思惑の上に言挙したものである。次のとおりである。「けれど二三年立たざる中にこの詩風が凋落し始めたのは」と切り返して、その詠いぶりに批判的に対すべく、「アイデアリズム、センチメンタリズム、ロマンチシズム、この三つの内容以外には一歩も出ることが出来なかったので」、「現代煩悶の黒い影などは、少しも其面影を伝へなかつた。悲哀は唯悲哀にて足り、煩悶は只煩悶にて足り、其中にふくまれていた情緒もまた甚だ簡単なるものであつた」として、これが、藤村・晩翠詩が「忽ち凋落し去った所以で」あったとする。要は表層しか詠っていなかったのだ、凋落も当然のことであったと説いて聞かせたわけである。自分のことは棚上げにしたまま、その外に立って発せられた批判である。よく言えたものであると感心させられるばかりであるが、しかし、批判によって得られた彼等との距離は、彼の評論家をさらに饒舌にしていく。

ここには、「新しい西洋思想の刻々の圧迫を受けつつあるわが文壇」の事情があると、背景への言及を梃子にして、文壇は、「その不足を補うべく新なる詩人を要求」したのだ、とあたかも自分もその文壇の側の一員であるかのように言う。それどころか、そこに現れた有明、泣菫を正しく捉られるのも、自分の批評眼がそうさせていたかのように言う。今や時代の先端を行く者の口ぶりである。驚くばかりである。

 

蒲原有明

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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