柳田国男の「文学」 その点、松岡国男(柳田国男)の態度は明確である。生前、著作集(筑摩書房版『定本柳田国男集』)が編まれようとしていた時、「松岡国男時代」の作品すなわち詩篇ほか文学評論等の採録を許そうとしなかったからである。対談の中でも明言している。その辺のことは前にも触れた1。「『あれはいやなもんですよ、我ながら実に不愉快なもんだね、腹の中で思うていないことばかり言うておるんだよ』と対談で語るほか、別の著書(『故郷七十年』)では、自作を藤村と比較して「お座成りの文学」だと断じて振り返る気にもならないと一蹴している」と。思い出したくもないと言っているのである。「記念」どころの騒ぎではない。全否定である。実に明快である。見方によっては一つの責任の取り方である。

しかしこう言い返されてしまう。松岡は詩を捨てたのではなく文学を捨てたのだ。彼は民俗学に転じたのだ。だから割り切れるのだ。全否定も民俗学のための言(弁)でしかない。話を一緒にしてもらっては困る。自分たちとは違うのだ。なるほど。でもはたしてそうだろうか、柳田国男が転じたのは文学の外の世界だったのだろうか、同じだったのではないか、むしろその上を行っていたのではなかったか。以下が教えてくれる。

岩波文庫版『遠野物語』の解説者(桑原武夫)は語る。なぜ文学者の自分が解説を依頼されたのかと。すでにそのこと自体、つまり依頼のあった事実が事実として、柳田の仕事が文学であることを物語っているわけだが、解説者もその自覚のもとにあらためて『遠野物語』を繙くことになる。注目したのは文体だった。しかも文体が「文学」を創ったと見る。「柳田は方言を使わず、すべて清潔化し、簡略にさらりと情け深い文章にした。つまり柳田の作品としたのであり、一個の文学作品が形成されたと見てよい」とするが、「人間の心に関する事実」を書き表すにおいて「古風にして新鮮な文体」が自覚的に駆使されている点に注目し、この文体の上に「別種の文学をつくり出した」と、具体的な記述例を挙げながら説いてみせる。

解説者がそう思っていたように、ここにあるのは、「現実」に閉塞的な藤村・花袋のそれと違う、普遍性に通じる文学精神――彼等に擬えるなら、あるいはそれこそが真の自然主義を地で行く文学精神だった。次は冒頭部分の遠野郷の地理的景観を綴った部分である。同書では「地勢」に分類されている。

 

一 遠野郷は今陸中上閉伊郡の西の半分、山々にて取り囲まれたる平地なり。新町村にては、遠野、土淵、(八村分略)達曾部の一町十ヶ村に分かつ、近代或いは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠野保とも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなわち一郷の町場にして、南部家一万石の城下なり。城を横田城ともいう。この地へ行くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上川を渡り、その川の支流猿ヶ石川の渓を伝いて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝えていう、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落なせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落合うもの甚だ多く、俗に七内八崎ありと称す。内は沢また谷のことにて、奥州の地名には多くあり。(『遠野物語』「一」)

 

 

目に見えるままに淡々と綴っているように見えて、このまま物語(ロマン)が立ち上がっていくかのような、その先を窺う参入的描写である。もし自然主義的叙景法があるとしたなら、この「なり」「あり」の、客観的な芯ある潔い断定形や、逆に「伝えていう」の、一歩引いた伝聞的な間の置き方がつくる、両者相俟った三人称的な響き合いに生まれる音韻感は、その一つであろう。「情け深い文章」とされるところも、こうした三人称的な叙述に与かるところが少なくなかったはずである。その点、同じ叙景文でも有名な藤村の『夜明け前』の冒頭は、「私」から離れ切れない一人称的な和声を潜めている。

 

木曽路はすべて山の中である。あるところには岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。

東さかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曽十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い渓谷の間に散在していた。道路の位置も幾度か改まったもので、古道はいつの間にか深い山間に埋もれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場所ではなくなって、徳川時代の末には既に渡ることの出来る橋であった。新規に新規にと出来た道はだんだん谷の下の方の位置へと降って来た。道の狭いところには、木を伐って並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曽路に起って来た変化は、いくらかずつでも嶮岨な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。その度に旅人は最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。(『夜明け前』冒頭)

 

一人称と三人称との相違に浮かぶのは時間である。藤村は、小説の今(「現在」)を生きる。柳田国男の生きる時間(民俗的時間)は、過去と現在を区別しない。どちらでもありどちらでもない。区別がない。区別には意味もない。時間はあってないようなものである。時制の逸脱である。たとえば時制は、次のような形をとって現れる。有名なザシキワラシの話(民話)である。

 

一七  旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下にてはたとザシキワラシに生き逢い大いに驚きしことあり。(以下略、傍線引用者)

 

このように「今(高等女学校)」が不用意に現れる。不意を突かれた感じである。一瞬分からなくなってしまうのである、この話の時間軸が。民話であったのか実話であったのかが。もちろん民話は土地の中では生きた話であるにしてもである。

これが時制の逸脱である。同じ話の続きには別の家の話(「事例」)が引かれ、居ないはずの主人の部屋で音がする。その場面をこう綴る。「この家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし」(傍線同、以下同じ)と。まとめ上げ方は「この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」として。「久しき以前」とはどのくらいの時間量なのか。それを含めて、「東京」と「神の宿りたもう家」との間には、往来しきれない時間的齟齬があり破綻がある。やはり時制の逸脱である。

生存上にこれほど刺激的な時間関係があるだろうか。この「タイムラグ」が文学でなくてなんであろう。しかも記述者とは、時間の採取者であり、時間関係の編成者なのである。普通の編成ではない。逸脱した時制の編成である。

逸脱には倫理的要素も加わる。通常の倫理では受け容れられない、「民話」の域を超える陰惨な話も、民俗的フィルターによってカタルシスされる。そんな話の一つに第一一話の母殺しの話がある。仲悪しき姑と嫁の争いに辟易した息子が、実の母を殺す話である。描写に予断がない。躊躇いがない。母殺しなる人間主義に真っ向から背を向けた、倫理観からもっとも遠い叙述が、しかし倫理を超えて平叙される。超えるとは善悪(勧善懲悪)の謂いではない。真理を窺うの謂いである。

その後狂った息子の狂も人間主義に発動するものではない。そう読み取るべきである。生と狂とは、紙一重というよりコインの裏表である。人間存在の深淵に立たされる思いである。あるいは大きな空白感に突き落とされる感じである。かく民俗的時空が、「狂」に「真理」を覗かせる。時に不条理を厭わない。否、不条理こそが高い人間的和解に実存を導く。これが高い文学でなくてなんであろう。

こうして見れば、柳田が詩を離れた理由も明快である。時制や倫理の逸脱が創る内的緊張感が柳田国男を捕縛する。柳田は転出者でも転身者でもない。超俗者である。この場合の「超俗」とは、文語詩的時空間からのそれである。彼は自分たちの抒情詩に「俗」を覗き込んだのである。そして、それがまとっている雅言に辟易する。「あれはいやなものです」のなかは、こういうことだった。違っているだろうか。

1 渡辺はじめ「日夏耿之介四題」(筆者ブログ「インナーエッセイ」二〇一四七月)

 

柳田國男

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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