期待される詩世界の創出 川上未映子における詩と小説との同時進行とはいかなるものなのか。本格的に問うにはさらに作品に当たらなければならないし、「文体詩」が基本だとしてもそれだけで解し切れるわけではない。先行者との比較も必要となる。その一人を上げれば、戦後詩にあって主導的な立場に立ち続けていた詩人を指差すことになる。飯島耕一である。詩と小説の関係を、二者関係というより自分のなかにおける「二面方式」(一)として了解済みに受け容れている。「理論」としても見逃せない。もちろん飯島耕一だけではない。金井美恵子はデビュー当時の在り方から見ても川上未映子により親和的である。言葉にも文体にも真正面から体当たりしている(二)。彼らとの比較だけでも「文体詩」はより身近な問題になるだろう。

いずれも用意がないが、参考までに同じ散文スタイルを踏襲する第二詩集『水瓶』までの進行関係だけを確かめておくと、『ヘヴン』的な創意は早々に奥に引っ込んでいるのが分かる。第一詩集と中編小説との相乗効果は、第二詩集と小説との関係では、たとえば第二詩集の表題ともなった最新の作品「水瓶」から眺めると、直接的な倍音化とは異なるものになっている。ただ位相差は生んでいない。川上未映子独自の詩と小説の関係は、次の段階を迎えている。

最新作の『あこがれ』は、主人公が同じ少年少女であるだけに、それだけでも『ヘヴン』との違いに注目しなければならないが、はたせるかな、『あこがれ』が『ヘヴン』との間につくるのは、『ヘヴン』がその外に除けていた詩である。二章仕立ての原作にかりにもう一章を立て、詩章として全体で三章からなる三位一体的な世界の構築を図ったとしても、原作は拒まない。読み手の勝手な思惑ながら、それも『あこがれ』の文学的範疇である。読者の勝手気ままを許すのである。

この先のことは、これまでのことを含めて、未知の前に立たされている状態であるにちがいないが(最近のTV対談でそう語っていた)、彼女の場合は、未知自体が創作的模索であることに変わりなく、それが期待させるものは、詩だけに限っても新たな詩世界の創出である。未知こそ最大の誘い。彼女のテーゼであるにちがいない。魅力でもある。

いずれにしても、川上未映子における詩と小説の関係は、現代詩の多様性や多義性からみてもすこぶる興味深い問題(三)である。これも明治後半に始まる、個人における詩と小説との詩史的関係の延長にあるものであることを再度確認するとき、あらためて川上未映子を読む意味が、期待感の中で更新され続けることになる。

(一) 飯島耕一は、自分のなかに詩と小説を明確に位置付けている(飯島二〇〇一)。詩が意図的に削ぎ落した部分、行間に読ませようとした部分を原資とした小説。それを飯島は、「反黙説法的小説」と呼ぶ。したがって両者は対立関係にないことから、自分は小説を書く詩人あるいは詩を書く小説家という「二面方式で行くこと」ができるのだという。

(二)金井美恵子も自分のなかにある詩と小説に向かい合う(金井一九七八)。たとえば、「〈文体〉はまるで作者の面の皮のように部厚く固定的であるかのようだ」とか「「〈文体〉もまた言葉なのだが!」とか、これはもっぱら小説に向かっての語り掛けであるが、詩人である(あった)ことを自分なりに踏まえた上での、さらにその先に行こうとしている立場からの掛け声であったにちがいない。

(三)この点については大岡信も関心を抱いている(大岡一九八五)。「なぜ詩を書いているうえに小説も書かなければならないのか」、あるいは「詩、小説、評論が同一人の内部でどんな連関をなしているのか」のような問いを立てる。前者は飯島耕一に、後者は清岡卓行に向けて発する設問であるが、自分の問題としているところに、小説を書く書かないを超えた普遍的テーマであることを教えてくれている。

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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