問われる必然性 クライマックスの部分を紹介しよう。いじめられている二人(少年と少女)は、公園でオープンのセックスを強要される。中学生の話である。いじめる側には女子生徒の姿も見える。その見ている前での話である。いじめの主犯格は言ってのける。「犬だってそのへんでしてるんじゃないか」「あいつらまったく気にしてないぜ? なあ、がんばればおまえもできる。だからがんばれ」と。

急き立てられ、場面は窮迫してくる。女子生徒(コジマ)を開放してもらうために主人公の僕は、代わりになんでもすると申し出る。じゃ脱げと、脱がされることになる。自分から裸になる。でも約束は守られない。今度はコジマを裸にしろと迫られる。「おまえが脱がせられないなら、誰かにやらせるけど」と、ふてぶてしくも平然と言ってのける。

現場に潜入してみよう。以下のとおりである。――雨が降り出していた。ますます激しくなっていく。極まっていた。なにかが。おそらく世界が。そのときだった。コジマが立ち上がって、決然として自ら服を脱ぎだしたのだった。なんのため? 世界を瓦解させるためだった。間違っても勝利のためなどではなかった。そして次はその核心のくだり(一部)。

 

コジマは靴を脱ぎ、それから靴下を脱いで裸足で土のうえに立った。それからネクタイと襟のあいだに指を入れてほどき、それをまるめてブレザーのポケットに入れた。ひどくゆっくりした動作だった。それからブレザーを脱いで地面に捨て、ブラウスのボタンを上から順にはずしていった。つぎにスカートホックをはずし、そのまますとんと地面に落とした。足もとに紺色の輪ができて、ひろがったすそは水たまりに浸り、雨がその色をすぐに濃くしていった。裸足に白いタンクトップとブルマという姿になったコジマは紺色のブルマを脱いで捨て、白い下着だけという姿になった。雨で布が身体にはりつき、水滴が何本もの筋をつくり模様のように流れていた。誰も口をきかなかった。コジマはタンクトップをめくりあげてひじから腕を抜き、首を抜き、それも地面に落とした。裸になったコジマの上半身があらわれた。あばら骨が浮いて見える、小さな身体だった。それからパンツを脱いで、完全な裸になった。誰もなにも言わなかった。雨の降る音だけがして、コジマはそのなかで立っていた。コジマが脱ぎ捨てた制服にもコジマの身体にも金色の雨が降りそそいでいた。陽の光を反射した水たまりはきらきらと跳ねあがり、雨はさらに激しくなっていた。

 

この後の展開は想像できるというものである。見かけ上の勝利者が演じられるからである。コジマはまず取り巻きたちに近寄る。裸の体を目の前に見せつけられた女の子たちと男の子たちは、後を追うように逃げ出す。残った主犯格(二ノ宮・百瀬)の二人も体を硬直させてコジマのされるままになる。「コジマは二ノ宮のほおをなでた。二ノ宮の身体がこわばるのが離れていてもわかった。コジマは微笑みながらその手を上に持ち上げてゆっくりと頭をなでた」のとおりである。

なるほど悪ガキどももこれではされるがままになって、大人しくそれも硬直気味に突っ立っているしかない。少女は勝ったのである。降り続ける雨も「金色の雨」だった。でも「勝利」だろうか。演出上はあるいは形のうえでは勝利である。それにこの場面だけしか知らされないとすれば、勝利に異を唱える者の疑義はかえって怪しまれる。したがってこの場面だけで論じても仕方がないのだが、実はこの場面が場面として単独に問題なのである。なぜこのようなクライマックスが作られたのか、作られなければならなかったのか。テーマは作者を動かす。しかしこの場面では、テーマがテーマを動かしていた。作者ではなかった。

それを教えるのは、ニである。「抱え持ってきたテーマを思い切り展開した一冊」のくだりで思い立ったのが、先に挙げた『わたくし率 イン 歯ー、または世界』([1]二〇〇七年)のクライマックスである。これもある意味「いじめ」の世界だった。付き合っていた男が実は女と同棲していて、男のアパートを訪ねたところ、女に完膚なきまでに叩きのめされてしまうからである。直接の暴力ではない、言葉の暴力でである。斬新な「暴力!」である。「いじめ」とするのは、存在の根底が否定されるからである。でもここでは否定が否定の側に回っていない。必然がある。必然のなかでの否定である。

 

「あんたなあ、これまじで迷惑なことしてくれてんのわかってんのまじで。人んち来といていきなり訳わからんこと叫んで玄関しばいてあんた何してくれてんのんこれ。何やってくれてんの。わたしわたしうるさいねん。奥歯とか雪とかさっきから何をゆうとんねん。いっこなんも意味わかってへんからこっち百パー意味わかってへんから。ってゆうか、あんたおかしいんやろ? おかしいの認定されてるからこうやって人に迷惑かけに来てほんで全然こっちはおかしい認定ですからしゃあないですからってそういうあれでこれしてんのんかこら。なんかゆえよ。だいたい何をいいにきたんやって」

 

以下の圧倒的な言いまくりは、こんな生易しいものではない。人格否定どころかまさしく存在否定のド迫力である。しかし、ここには同じ人格否定でも『ヘヴン』にない救いがある。人間を信じていられる、という救いである。『ヘヴン』を読み終わった後、現実をさらに「現実」にする必要があるのか戸惑った。『ヘヴン』に関する限り「現実」は救いではない。本の見返しに認めておいた読後感である。とりわけそう思ったのは、『ヘヴン』と同じ二〇〇九年に『ヘヴン』の刊行に先立って一冊の傑作が生まれたことにもよる。

同じ少年少女を扱った山田詠美の『学問』(新潮社、二〇〇九年六月)である。ここには文学という永遠がある。見返しに記したのは――「いずれ名作と呼ばれるようになる作品。美しさ……現代の美しさ、言葉にならない〝純愛(の美しさ)〟。個人的なものなどはるかに超えて、時も超える美しさ。言葉を失う」である。物語を体験したのではなく文学に人間を体験したのである。そして、体験による高ぶりが、見返しにそのまま〝青く〟想いを綴らせたのである。

かく『ヘヴン』は、内・外から立場を悪くする。ここに詩の問題を持ち出せばどうなるか。『ヘヴン』から詩は生まれない(一)。離れる。藤村の小説がそうだったように。離反の構造も似ている。故に文学史的離反である。以下は川上未映子における詩と小説の問題である。

(一) 小説は直ちに詩を必要としているわけではないし、登場人物たちも誰も詩を詠わない。別に用意された詩を前にしてはじめて彼らは詩人になる。形としては後付けである。後付けであるが、現場に遡って再確認を求める手合いのものではない。それを言うなら再認識である。なるほど生まれながらの詩人揃いといった感じになる。本人たちもそう思う。いずれも読後感が生み出すものである。それがあるかないか、ある意味では評価の分かれ目となる。『わたくし率 イン 歯ー、または世界』さらには『乳と卵』にはそれがある。『ヘヴン』で唯一詩人になれるとすれば、コジマであるが、事件の後、公園の姿を最後にして学校を去ってしまう。世界の破壊者は、自分を最大に破壊したままである。それが詩を生むかもしれないとしても、主人公が詩人になれないところに彼女だけが詩人になるのは難しい。別の機会が求められる。いずれにしても作者次第である。

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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